大人が遊ぶ “砂場” もあるんだよ



H「最近、天ぷらものに凝っていて、本日は室町砂場の天もり。
この店が発祥というメニューだが、てえーしたもんだって感じ。」


室町砂場_天もり

おーっ、大御所登場!
「吾妻橋やぶそば」に続いて、『室町砂場』ですね。
老舗名店が近くにあっていいなあ。
江戸蕎麦の粋を楽しめましたか?
あ、“てぇーしたもんだ” って表現に、その答えが出ていますねー。

僕にとって、“砂場”は最近までとてもミステリアスな蕎麦屋だったんだよ。
だってね、高校卒業までの18年間は、田舎で砂場の看板なんか一度も見たことなかったし、
東京に出て来てからも、蕎麦屋を気にしてたわけでもないし、
近所にも “砂場” はなかったからね。
あ、いや、いまでも “砂場”のこと、全然知らないんだけどさ。

だいたい、僕は “室町砂場の天もり” もまだ食べたことがないんだなー。
ふとどきもんの蕎麦好きですなあ。
室町砂場の天もりといえば、天もりのパイオニアだもんね。
おか天ではなくて、甘汁にドボンとかき揚げを浮かべて、蕎麦は冷たいもり、というスタイル。
夏場に暑くて、蕎麦屋のドル箱メニューの天ぷら蕎麦が売れなくなるのをなんとかしようと
考えられたものらしいよ。

“砂場”といえば、東京のすべての蕎麦屋の頂点、というとちょっと違うか、
東京のすべての蕎麦屋の元祖、みたいなブランドなんだからねー。
かんだやぶの創業者だって、元は「中砂」っていう砂場蕎麦屋をやってたくらいだから。
室町砂場の天もりを食べたことないなんて、お恥ずかしいですわ。

僕は、“さらしな”というと、手ぬぐいの「さらし布」を思い出して、
何か蕎麦の作り方かなんかだと思ってた。
“やぶ”は文字通り、竹藪かなんかが店のそばにあったんだろうな、って想像がつくよね。

でも、“砂場”って何よ。
最近は、犬や猫がうんこすると幼児にとってばっちいので、
金網で囲まれた公園の砂場があるけど、そんな悲しい風景しか想い浮かばないけど、
って程度だったんだな、これが。

しかしだ、蕎麦屋の “砂場”は、ホントに砂のある砂場のことだったのだ!
蕎麦屋の “砂場”は、もともと建築用の砂置き場だったところにできた蕎麦屋だから
“砂場”という呼び名がついたんだそうだ。

その砂場は、豊臣秀吉が大坂城建設を始めた時に作られた、砂や砂利や建設資材置き場のことだと。
そのあたりを“砂場” という呼び名で呼んでいたらしい。

それで、大坂城建設着手の翌年の1584年には資材置き場で職人に食事を提供するための蕎麦屋があった、
という有力な説があって、それが日本初の「蕎麦屋」だ、
ということになっているみたいだけど、真偽がはっきりしないらしい。

でも、記録では “蕎麦切り” 自体はそれより10年も前にあったことが確認されているし、
そのエリアを “砂場” という呼び名で呼んでいたことは間違いのないこと。

秀吉が作った大坂城とともに豊臣氏が滅ぼされて、
徳川による大坂城が完成した1629年に、空き地になった砂置き場に、
幕府が「新町」として遊郭街を作ったそうだ。お上公認だよ。
その辺がやっぱり俗称で、“新町砂場”と呼ばれていたみたいだね。

そこは後に、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町と呼ばれるほどの
一大欲望産業エリアになったそうだ。
いまの大阪市西区新町の二丁目と三丁目のあたり

記録では、その “新町砂場”には2軒の人気麺類屋があったそうだ。
「和泉屋(いずみや)」「津国屋(つのくにや)」
庶民に “砂場の蕎麦屋” という呼ばれ方をして、
そのうち屋号じゃなくて “砂場” で通るようになった、
というのが『砂場』の起こりらしいね。

1700年代や1800年代に発刊された書物を比較すると、
この2つのどっちかが、記録に残る日本最古の『砂場』ということらしい。

つまり・・・

① 記録に残る日本最古の蕎麦屋は、江戸ではなく大阪にあった
② 記録に残る日本最古の蕎麦屋は、『砂場』である
③「和泉屋」と「津国屋」のどっちかが砂場の第一号店


・・・ということになるわけだ。

でもこれは、あくまで “記録に残る” であって、当時の有名店という意味に近いと思うな。
だって、当時の大坂や江戸の繁華街には、蕎麦やうどんを食べさせる屋台や茶屋がたくさんあったんだから。

江戸で初めて蕎麦屋の『砂場』の文字が登場するのは、1751年に発刊された「蕎麦全書」とのこと。
有名な日新舎友蕎子の著作で、「薬研掘大和屋大坂砂場そば」という店名が出てくるらしい。
ここでも、砂場が大坂発祥であることがわかるよね。

だけど、この「大和屋」が、最古の「和泉屋」や「津国屋」と関係あるかどうかはわからない。
ただ、1629年から1751年の間のどっかで、大坂から江戸に『大坂砂場そば』が進出してきた
ということは確かなわけだよな。

1751年以降の書物では、いまの中央区に “砂場” のつく蕎麦屋があったことや、
「浅草黒舟町角砂場蕎麦」という店があったことなどが確認されているから、
1700年代後半には、江戸にもけっこうな数の “砂場”があったはずだよね。

1800年代になったら、当時の書物に登場する “砂場”の数もふえて、
「茅場町すなば大坂屋」とか「久保町すなば」、「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」、
「砂場そば茅場町定吉」、「砂場そば深川御舟蔵前須原屋久次郎」、「兼房町砂場安兵衛」、
「浅草黒舟町角砂場重兵衛」、「本所亀沢町砂場兵蔵」なんかがあるんだけど、
このうちの「久保町すなば」が、いまに残る『巴町砂場』で、
「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」が、いまの『南千住砂場』
でも、どれも、大坂のどこの砂場とつながりがあるのか、わからないらしい。

茅場町のすなばや浅草黒舟町の砂場は、どこへ行っちゃったんだろう。
その人たちだって、江戸時代から続く東京の砂場の元祖であるはずなのに。

というわけで、いまも続く江戸の砂場の系列は、2本あるということになるねぇ。

「久保町すなば」は、元々、徳川家康が名付けたとされる御用屋敷街の久保町というところにあった。
町屋立ち退きの命令が出て微妙に引っ越したりしてるけど、
いまだにずっと東京都港区にある愛宕山の近くにあるのだ。
明治になって町名が巴町になってから、店名が『巴町砂場』に変わった。
現在のご主人(萩原長昭氏)で15代目!
これが、2本の系列うちの1本。

もう1本の系列は、その「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」だけど、
1813年にはもう存在してて、1848年には江戸の名物のひとつとして超有名店になってたとのこと。
いまの千代田区麹町4丁目あたりにあったらしいんだけど、
麹町は江戸城外堀の四谷見附より内側だから、当然、
フツーには町屋を建てられない武家屋敷町のまっただ中だし、
当家が持っている江戸時代の資料に、1831年に長岡という名字が書かれているから
ただの蕎麦屋ではなかったと考えられているんだそうだ。

その名店が、12代目の紋次郎の時に財テクで失敗して、大正元年に南千住へ移転して
いまの『南千住砂場 砂場総本家』となった
んだって。
平成25年現在のご主人、長岡孝嗣さんは14代目!

『巴町砂場』と一緒に江戸蕎麦・砂場のルーツを背負っているなんて、スゲーな、って感じだけど、
どうも、趣味蕎麦の店として高級路線を進んでいる巴町とは正反対で、
めちゃめちゃ庶民派路線を突っ走っているらしい。
庶民の足・都電荒川線が近くを走っているのとは、関係ないと思うけど。

ところで、その南千住砂場の前身「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」は、
江戸から明治の動乱期もものともせず生き残り、「本石町砂場」「琴平町砂場」の2店も生んだ。

「本石町砂場」は、最初、慶應年間(1865~68年)に暖簾分けで高輪の魚籃坂に出店した後、
明治2年に日本橋に移転してできた店

これが、なんといまの『室町砂場』。
その室町砂場から、親族により昭和39年に生まれたのが、いまもやってる『赤坂砂場(室町砂場赤坂店)』

「琴平町砂場」は、明治5年、「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」の職人だった稲垣音次郎が
暖簾分けしてもらって出した店で、これが、Hくん日用の『虎ノ門 大坂屋 砂場』

いまの建物は、大正12年に建てられて平成7年に改修も加えられたものだけど、
場所は、明治5年の創業の時から変わっていないというからすごいねー。

関東大震災を生き残り、大正ロマンをいまに伝える、文化財に指定してもいいくらいの木造3階建てが、
地区再開発事業に巻き込まれて、もうじき移転閉店するらしいよ(平成25年2月現在情報)。
たいへんだ!1回一緒に行ったけど、もっともっと行っとかなくちゃね。

今度、休みの日にでも、都電に乗って南千住砂場に行ってみないかい?
室町や虎ノ門の本家だよ。
けっこうがっかりする人も多いらしいんだけど、
それもまた一興かなって思うんだけど、どうかなあ?


●『室町砂場』
03-3241-4038
東京都中央区日本橋室町4-1-13 砂場ビル
月~金 11:30~21:00(L.O.20:30)
土 11:30~16:00(L.O.15:30)
定休日/日・祝


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