どかないぞ ~ 『虎ノ門 砂場』



平成25年2月頃、“虎ノ門砂場” が地区再開発事業に巻き込まれて、
もうじき取り壊されて移転する、というウワサがあったんだよ。

いまある建物は、1872年(明治5年)に創業の後、1923年(大正12年)に立て替えられて
平成7年に補強が行われたものだそうだ。
明治5年というと、新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通した年だし、
福沢諭吉の「学問のすゝめ」の初編が発表された年でもあるんだよ。
前年には、「廃藩置県」が行われたばかり。

そんな激動の中を日本と一緒に成長し、関東大震災や東京大空襲や
昨今の地上げブームを逃れて生き残ってきたというわけ。
大正ロマンの香りが漂う木造3階建てで、
いまは、コンクリートジャングルの中でひときわ目立つ存在だ。

山岡鐡舟、高橋泥舟、勝海舟の三舟、山本五十六、鳩山一郎、田中角栄なんかも
ごひいきだったというからすごいよね。

そんな外観も中身も文化財クラスの建物が、なくなる!
やばい、早く行っとかなくちゃ、というわけで行ったんだよ、2度目だけど。
できるだけ写真を撮っておこうと思ってね。
その日は3月25日、異常に早く咲いてしまった今年の東京の桜も、名残の頃だったな。



“虎ノ門 砂場” は、「西新橋交番前」という交差点の角に立ってる。
下町の雰囲気とか住宅なんかは微塵もないオフィス街。
近所には、日本郵政の本社や虎の門病院、アメリカ大使館、ホテルオークラ、
隣町は霞が関の省庁街、国会議事堂だって歩いてすぐなのだ。


001虎ノ門砂場_全景

002虎ノ門砂場_正面
「西新橋交番前」交差点の角

003虎ノ門砂場_正面2
2階建てに見える3階建て

004虎ノ門砂場_正面3

005虎ノ門砂場_看板

006虎ノ門砂場_看板2

007虎ノ門砂場_御前看板
御前粉=さらしな粉で打つ「ごぜんそば」もある

008虎ノ門砂場_玄関
季節の趣向がわかる「掲示板」が特徴的

009虎ノ門砂場_玄関2
その日は、「はまぐりそば」「白魚天せいろ」「桜切り」と、旬をビシッと押さえてある!

砂場のルーツは大阪にあるらしいんだけど(※1)、江戸に始まった砂場の系統は2つ。
一つは「久保町すなば」から続く「巴町砂場」で、
もう一つは「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」から、直系の「南千住砂場」と、
暖簾分けの「本石町砂場(現 室町砂場)」と「琴平町砂場(現 虎ノ門砂場)」の3つに派生した系統。
明治5年に生まれた「虎ノ門砂場」の初代は、稲垣音次郎。

010虎ノ門砂場_玄関二階
代々の跡取りが寝泊りする決まりになっている2階

「虎ノ門砂場」の2階は、客用の座敷になっていて、
ランチタイムなどの混雑時や宴会に使用されているんだけど、
2階の1室には明治35年以来、代々の跡取りが寝起きする部屋があって、
初代当主の音次郎が書いた掛け軸がかかっているらしい。

一、人に貸すことなかれ
一、人に借りることなかれ
一、唯一心に勤め励美て家門を思ふべし



011虎ノ門砂場_玄関二階2

012虎ノ門砂場_花

013虎ノ門砂場_花2

014虎ノ門砂場_花3
大正12年、蕎麦屋専門の大工が立てたと言われる普請
銅葺の屋根や窓の欄干、雨どいなどに大正らしい造作が見られる



「虎ノ門砂場」は、完成された蕎麦屋だと思う。
僕の中では、「神田まつや」と並ぶ、老舗の中でも名店中の名店じゃないかと。

まず、季節のメニューが極めて豊富なこと。
これは、季節の一品料理ではなく、ちゃんと蕎麦屋メニューであることがさすがだ。
秋には、12~13種類の天種(かき揚げ)が勢ぞろい!
これを愉しみに、何度も足を運びたくなるねー。
もちろん、冷たい蕎麦、温かい蕎麦の伝統的なメニューもばっちりある。

015虎ノ門砂場_メニュー

それから、そばの打ち方も、基本の「もり」の他、いわゆるさらしな粉の「ごぜん」、
挽きぐるみの「太打ち切り」に、生姜切りや桜切りなどの「変わり蕎麦」と多彩。
変わり蕎麦には、「粗挽き切り」が入る時もあるからすごい!
これも楽しいね。

さらに、カツ丼やしらすご飯、かき揚げ丼なんかと半かけ蕎麦のセットもある。
リーズナブルな値段で、オフィス街にはうれしいメニューだよね。
親子丼、カツ丼、天丼 上・並、葱丼、穴子丼、野菜丼、秋野菜丼など、
どんぶりだけメニューもわいわいある。

吟醸系が中心だけど、お酒の種類も豊富。
“酒の肴” も蕎麦屋の定番はもちろん、蕎麦屋らしいそそるメニューもばっちり。
たとえば、うまいと定評の「焼き鳥」、「巣篭り蕎麦」、「揚げ出し御前(そばがきの揚げ出し)」、
「浅利の時雨煮」、「車海老の鬼殻焼き紫蘇風味」、「小田巻き蒸し」などなど・・・、
うー、涎が出てきた。

おまけに、デザートの「そは汁粉」もあるからすごい。

とにかく、江戸蕎麦の老舗としてこれ以上やれることはあるかなあ?
というくらいビシーッと押さえてある印象だなー。
もちろん、日本料理屋や懐石料理屋みたいなメニューは求めていないのだ。
そうそう、僕は蕎麦屋として大切なことだと思うんだけど、
値段は他の名店と比べてもすごーくリーズナブルなのだ。

歴史ある普請とお店の歴史そのもの、
そして蕎麦屋としてのメニューの豊富さ季節の味覚へのこだわり、
それから庶民的なもてなしと値段、さらには、中休みなし・・・
僕は、ココを江戸蕎麦屋の完成形のひとつだと断言するね。

016虎ノ門砂場_メニュー酒



入店したのは午後4時頃。
そうだよ、昼時をはずして蕎麦屋酒をやろうと決めてやってきたのだ、ハハハ。

よっしゃー、いくぜー、というわけで、まずは酒!
こちとら江戸っ子なんで、「沢の井の純米」に決まってら。(ホントは道産子)
お燗にしてもらった(550円)。
お通しは「切り昆布の佃煮」。

塗りの重厚な懐石盆みたいなのが、いいね。
蕎麦屋では “膳” と言うんだね。
お酒とお通しと箸だけを載せて出すのが「御酒(ごしゅ)膳」、
箸、もり汁、薬味と蕎麦をセットするのが「本膳」。
端番(はなばん=花番)さんのお仕事ですねぇ。

水は、たのんでないのに出てきた。
個人的には、これもいいな。

017虎ノ門砂場_燗酒&お通し

ツマミは、ホントは柔らかくてうまい「焼き鳥」にしようと、来る前に思っていたんだけど、
季節のメニューがあまりに多彩なので、目移りしてしまって「白魚のかき揚げ天」が
食べたくなってしまった。

なので、ちょびっと考えて・・・
「お銚子もう1本と “白魚の天せいろ“ お願いします。で、天ぷらと温汁だけ先に持ってきてもらって、
声がけでせいろを持ってきてもらえます?」とお願いしてみた。
そう、天ぷら&温汁を肴にしてちびちびやって、
酒がなくなったらすぐに蕎麦に移行、という魂胆。
酒を飲んでるうちに乾いたり、のびたりした蕎麦を食べるのは、ヤだもんねぇ。

花番さんは、嫌な顔ひとつせず、
「つけ汁は冷たい辛汁じゃなくて、あったかいかき揚げ用のつゆだけどいいの?」
(つまり、ぬるくなってかき揚げのカスが入ったつゆで蕎麦食えるの?という意味)
全然平気なので、めでたく商談成立。パチパチ
でも、老舗だからこういうたのみ方する人間なんて、いっぱいいるんじゃないのかな。

天ヌキとかおか天なんかをたのんで、後からせいろをたのめばいいじゃん、
という意見もありそうだけど、こういう “セコさ” も江戸蕎麦の遊びのうちだと思うんだよね。
江戸文化って庶民文化だから、京都なんかみたいに絢爛なものは少なくて、
合理主義というか効率主義というかが根本にあると思うんだよね。

もともと、江戸や明治の職人さんや商家の旦那なんかが、
「ゴージャスなメニューをバンバンたのむなんて野暮だねぇ。ここは、料亭じゃねーんだゾ。
おらおらクマ、さっさと飲んで食って、仕事に戻るぜぃ」、ってな感じなので、
早く、効率よく、経済的な食べ方が根付いているんだね。

そんな感じで長い歴史を持つ蕎麦屋だから、
「お声がけ」だとか、「天ヌキ」だとか、
「温かい天ぷら蕎麦をおか天ともりに分けて出してもらったり」とか、
裏ワザや裏メニューというものが江戸蕎麦屋にはたくさんあるんだよ。
この「蕎麦屋 裏ワザ&裏メニュー」を集めたブログを書いてもおもしろいかもね。



白魚の天ぷらが出てきたよ。

018虎ノ門砂場_白魚天

藪系より大振りなかき揚げだねー。

019虎ノ門砂場_白魚天アップ

020虎ノ門砂場_白魚天崩し

表面はガリッというかサクッというかに揚がっていて、
白魚がたっぷり入っているから中はホクホク。
なかなかのボリュームだよ。

これを温汁につけたりつけなかったりでツマミにして、お銚子をクイクイ。
んー、至福のひととき。

お酒の残りが、猪口にあと2杯くらいかな、という頃を見計らって “せいろ” をお声かけ。
つゆの追加も持ってきてくれた!

老舗らしく、特注の蒸籠に几帳面に “ちょぼ盛り” して、箸でならしてあるんだな。
“ちょぼ” とは、片手の指3~4本で蕎麦をつまみ上げることらしくて、
更科あたりの昔の蕎麦職人は、白魚20匹をつまむ量を “ひとっちょぼ” と言って、
そのちょぼでざるやせいろに蕎麦を盛りつけていたらしいんだな。
そうやって盛りつけることで、食べる時に蕎麦が絡んで箸で持ち上げにくくなったり
するのを防いでいたのだ。
なーるほどねぇ。

021虎ノ門砂場_もり

022虎ノ門砂場_もり寄り

023虎ノ門砂場_もりアップ

“せいろ” の麺は、微粉&細めの典型的な蕎麦の麺。
老舗は、この微粉のニ八というのが基本だよね。
僕は、この微粉も粗挽きもどっちも好きで、
あんぱんの「こしあん」と「つぶあん」みたいなものだと思ってる。
どっちにも、確固たるファンがいて、お互いに激論を戦わせても勝負がつかない。
リクツじゃなくて、うまいものはうまい。
あんぱんで激論を戦わせるんじゃない。
どっちもうまいので、どっちも楽しもう、という方針なのです。

ココのは、固からず柔からず、ややもっちりでバッチリつるつる。
蕎麦らしい蕎麦とでもいうのかな。
もちろん、おいしいですよー。

024虎ノ門砂場_蕎麦湯

食べ終わるのにもう一息、という頃にちゃんと蕎麦湯が出てきたよ。
どっかで、僕が食べているのをじっと見ている人がいたんだと思うと
なんだか落ち着かなくなってくるけど、
あちとらお仕事だから気にすんな、といつも自分に言い聞かせることにしてる。

こちらの蕎麦湯は、おなじみのサラサラ系。
後から粉を入れてポタージュ状にしない、ナチュラル系だね。
これも、僕はどっちも好き。

そうそう、湯桶は木製&塗りの特注品で、丸に砂の字が光ってるねー。

蕎麦湯を飲みながら、ボヘーッと店内を眺めていると、
僕の正面のずっと向こうに女性が一人。
新聞を読んでいて、蕎麦が出てきておもむろに食べ始める。
もう、午後5時頃だから、こんな時間に蕎麦を一人で食ってるなんてタダ者じゃないな。
んー、30代前半から後半くらいかなあ、思い切りキャリア、って感じだな。
僕がその年齢の頃、あんなふうに蕎麦屋を嗜む精神を持ち合わせていたっけか、
と考えると、なんかすんごい素敵な女性なんだろうな、という気がしてきた。

025虎ノ門砂場_内観

ずっとこのままボヘーっとしてる訳にもいかないので、
「よっしゃ、行くぜクマ!」と帰ることにした。
会計の時に、花番の班長って感じのおばちゃんに、
「こちら、近いうちに取り壊して移転するって聞きましたが、いつなんですか?」と聞いてみた。
すると、班長の顔がひきしまって、「わかりません」だと。
なんかを隠しているふうでもなく、表情だけではホントはどうなのかわからないまま店を出た。

026虎ノ門砂場_しし脅し
入口のすぐ右の足元にコレがある

027虎ノ門砂場_玄関二階
明治5年の人間が、歩行者用信号を見たらびっくりするだろうね

028虎ノ門砂場_外観左

二階の窓の欄干のところにも電燈が灯ってきたね。

新橋方面へスタスタ、交差点の向かいのあたりで振り返ってみると・・・おーっ、
あの店、でかいビルにL字型に囲まれて建っているんじゃんか!
来た時は、右側の塀づたいに来たので、ちっとも気づかなかった。

029虎ノ門砂場_外観引き

なぜ、あのビルはL字に建てなければならないのか・・・・

なんだあ、花番のおばちゃん、“わかってる” んじゃんか。

イェーッ、すごいぞ、虎ノ門砂場!
がんばれ、虎ノ門砂場!




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※1
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その砂場は、豊臣秀吉が大坂城建設を始めた時に作られた、砂や砂利や建設資材置き場のことだと。
そのあたりを“砂場” という呼び名で呼んでいたらしい。

それで、大坂城建設着手の翌年の1584年には資材置き場で職人に食事を提供するための蕎麦屋があった、
という有力な説があって、それが日本初の「蕎麦屋」だ、
ということになっているみたいだけど、真偽がはっきりしないらしい。

でも、記録では “蕎麦切り” 自体はそれより10年も前にあったことが確認されているし、
そのエリアを “砂場” という呼び名で呼んでいたことは間違いのないこと。

秀吉が作った大坂城とともに豊臣氏が滅ぼされて、
徳川による大坂城が完成した1629年に、空き地になった砂置き場に、
幕府が「新町」として遊郭街を作ったそうだ。お上公認だよ。
その辺がやっぱり俗称で、“新町砂場”と呼ばれていたみたいだね。

そこは後に、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町と呼ばれるほどの
一大欲望産業エリアになったそうだ。
いまの大阪市西区新町の二丁目と三丁目のあたり。

記録では、その “新町砂場”には2軒の人気麺類屋があったそうだ。
「和泉屋(いずみや)」と「津国屋(つのくにや)」。
庶民に “砂場の蕎麦屋” という呼ばれ方をして、
そのうち屋号じゃなくて “砂場” で通るようになった、
というのが『砂場』の起こりらしいね。

1700年代や1800年代に発刊された書物を比較すると、
この2つのどっちかが、記録に残る日本最古の『砂場』ということらしい。

つまり・・・

① 記録に残る日本最古の蕎麦屋は、江戸ではなく大阪にあった
② 記録に残る日本最古の蕎麦屋は、『砂場』である
③「和泉屋」と「津国屋」のどっちかが砂場の第一号店

・・・ということになるわけだ。

でもこれは、あくまで “記録に残る” であって、当時の有名店という意味に近いと思うな。
だって、当時の大坂や江戸の繁華街には、蕎麦やうどんを食べさせる屋台や茶屋がたくさんあったんだから。

江戸で初めて蕎麦屋の『砂場』の文字が登場するのは、1751年に発刊された「蕎麦全書」とのこと。
有名な日新舎友蕎子の著作で、「薬研掘大和屋大坂砂場そば」という店名が出てくるらしい。
ここでも、砂場が大坂発祥であることがわかるよね。

だけど、この「大和屋」が、最古の「和泉屋」や「津国屋」と関係あるかどうかはわからない。
ただ、1629年から1751年の間のどっかで、大坂から江戸に『大坂砂場そば』が進出してきた、
ということは確かなわけだよな。

1751年以降の書物では、いまの中央区に “砂場” のつく蕎麦屋があったことや、
「浅草黒舟町角砂場蕎麦」という店があったことなどが確認されているから、
1700年代後半には、江戸にもけっこうな数の “砂場”があったはずだよね。

1800年代になったら、当時の書物に登場する “砂場”の数もふえて、
「茅場町すなば大坂屋」とか「久保町すなば」、「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」、
「砂場そば茅場町定吉」、「砂場そば深川御舟蔵前須原屋久次郎」、「兼房町砂場安兵衛」、
「浅草黒舟町角砂場重兵衛」、「本所亀沢町砂場兵蔵」なんかがあるんだけど、
このうちの「久保町すなば」が、いまに残る『巴町砂場』で、
「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」が、いまの『南千住砂場』。
でも、どれも、大坂のどこの砂場とつながりがあるのか、わからないらしい。

茅場町のすなばや浅草黒舟町の砂場は、どこへ行っちゃったんだろう。
その人たちだって、江戸時代から続く東京の砂場の元祖であるはずなのに。

というわけで、いまも続く江戸の砂場の系列は、2本あるということになるねぇ。

「久保町すなば」は、元々、徳川家康が名付けたとされる御用屋敷街の久保町というところにあった。
町屋立ち退きの命令が出て微妙に引っ越したりしてるけど、
いまだにずっと東京都港区にある愛宕山の近くにあるのだ。
明治になって町名が巴町になってから、店名が『巴町砂場』に変わった。
現在(平成25年)のご主人(萩原長昭氏)で15代目!
これが、2本の系列うちの1本。

もう1本の系列は、その「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」だけど、
1813年にはもう存在してて、1848年には江戸の名物のひとつとして超有名店になってたとのこと。
いまの千代田区麹町4丁目あたりにあったらしいんだけど、
麹町は江戸城外堀の四谷見附より内側だから、当然、
フツーには町屋を建てられない武家屋敷町のまっただ中だし、
当家が持っている江戸時代の資料に、1831年に長岡という名字が書かれているから
ただの蕎麦屋ではなかったと考えられているんだそうだ。

その名店が、12代目の紋次郎の時に財テクで失敗して、大正元年に南千住へ移転して
いまの『南千住砂場 砂場総本家』となったんだって。
平成25年現在のご主人、長岡孝嗣さんは14代目!

『巴町砂場』と一緒に江戸蕎麦・砂場のルーツを背負っているなんて、スゲーな、って感じだけど、
どうも、趣味蕎麦の店として高級路線を進んでいる巴町とは正反対で、
めちゃめちゃ庶民派路線を突っ走っているらしい。
庶民の足・都電荒川線が近くを走っているのとは、関係ないと思うけど。

ところで、その南千住砂場の前身「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」は、
江戸から明治の動乱期もものともせず生き残り、「本石町砂場」と「琴平町砂場」の2店も生んだ。

「本石町砂場」は、最初、慶應年間(1865~68年)に暖簾分けで高輪の魚籃坂に出店した後、
明治2年に日本橋に移転してできた店。
これが、なんといまの『室町砂場』。
その室町砂場から、親族により昭和39年に生まれたのが、いまもやってる『赤坂砂場(室町砂場赤坂店)』。

「琴平町砂場」は、明治5年、「砂場そば 糀町七丁目砂場藤吉」の職人だった稲垣音次郎が
暖簾分けしてもらって出した店で、これが、Hくん日用の『虎ノ門 大坂屋 砂場』。
いまの建物は、大正12年に建てられて平成7年に改修も加えられたものだけど、
場所は、明治5年の創業の時から変わっていないというからすごいねー。

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●『名代 虎ノ門 大坂屋 砂場 本店』
東京都港区虎ノ門1-10-6
03-3501-9661
[月~金]
11:00~20:00
[土]
11:00~15:00
定休日/日曜・祝日


元祖・更科で蕎麦屋酒 ~ 『総本家更科堀井 本店』



新年、仕事はじめの日。
年末に出しきれなかった請求書を作って、大手広告会社D社へ。
ついでにいろんな部署をまわって、新年のごあいさつをば。
3M社の「ポストイット手帳小物」が “御年賀” だぜ。

ひと通り巡って、腹が減ったなあ、と思ったらもう午後2時じゃん。
なんか食って今日は早く家に帰ろう、と思ったらひらめいた。
これは、都内名店昼下がりの蕎麦屋酒をやるチャンスだと。
早い時間に直帰できる、仕事始めか仕事収めでもなけりゃ、
昼間っから蕎麦屋に酒を飲みに行くなんてできないよなあ。
しかも名店って、土日や休日はめっちゃ混んでるから、
平日・午後2時のいまこそ、こりゃめったにないチャンスだぜ。

・・・というわけで、「開店から閉店まで、午後休みなし=通しでやってること」、
「新橋から比較的近いとこ」というコンセプトで店を検討したら・・・

①「能登治」

②「総本家更科堀井」

・・・って感じだわなあ。
鴨ダネで有名な「能登治」は、新橋のSL広場からすぐのとこだし、
更科のルーツ、麻布十番の「総本家更科堀井」は、
現在地から都営大江戸線で12~13分だからねー。

ニユー新橋ビルの横の道をまっすぐ歩いて行けば、
老舗名店のひとつ「虎の門 大坂屋 砂場」にもすぐ行けるけど、
前にHくんと行ったし、後でまたしっかり取材に行こうと思うので
今回はちょっと横に置いといて。

能登治のあったかい鴨南蛮も魅力だけど、新橋はしょっちゅう来るから、
ここはひとつ、こんな時でもなけりゃめったに行かない麻布十番へ、
というわけで「総本家更科堀井」へ行ってみた。

ついこのあいだまで、僕は“永坂更科”といえば「麻布永坂 更科本店」のことだと思ってた。
「麻布永坂」という言葉をデパート内の支店や通販商品などで目にしていたから、
当然 “本店” のつく店のことだと思い込んでいたんだ。

ところがどっこい、麻布永坂のあたりには3つも“永坂更科”があったのだ!

『麻布永坂 更科本店』『永坂更科 布屋太兵衛』『総本家更科堀井』の3つ。

それを知ったのは、わりと近年。とほほ
しかし、どれがホントの元祖なのか、けっこうややこしい経緯があるんだよ。


麻布永坂町にできた更科の蕎麦屋のホントのホントの元祖は、
「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」という名前だったそうだ。
創業は1789年(寛政元年)というから、バリバリの江戸時代。

お、だったら、『永坂更科 布屋太兵衛』がその承継店だろ、
という感じがするけど、それは○正解ではなくて△ってとこかな。
まあ、ややこしいストーリーがあるんだよ。

信州の織物の行商人で、清右衛門という人がいて、江戸にちょくちょく来ていたんだけど、
麻布の保科という武家が逗留先だった。
当時は、行商人が物を売るために突然江戸にやってきてもバンバン売れるわけもなく、
口利きというか紹介人というか、そういうネゴが必要だったんだろうね。
保科家は、信州の保科村出身というから、
信州から来ている清右衛門と何らかの関係があったのかもしれない。

清右衛門さん、なんかのきっかけでその保科さんに実家で作って食べてる蕎麦を
打ってもてなしたことがあったんだろうね。
清右衛門さんは信州人の中でも相当蕎麦打ちがうまかったらしく、
保科さんはいたく気に入り、蕎麦屋の開店をすすめたそうだ。
そもそも保科さん自身が、すごく蕎麦が好きだったということもあるらしいけど。

その時に、清右衛門さんは「太兵衛」と名前を変えて
当時の平民は苗字がないし、布売りだから「布屋」で、
くっつけて「布屋太兵衛」という名前になった。
で、店名は「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」となったわけ。

「さらしな」とは、信州の蕎麦の名産地「更級」のことだけど、
“級”を恩のある保科家の“科”の字に差し替えて、「更科」としたわけだ。

当時、“さらしな”を冠した蕎麦屋は「布屋太兵衛」が最初というわけではなくて、
いまの馬喰町や浅草並木町に「さらしな」や「更級」があったと記録があるから、
先行のそれらと区別するためにも“科”の字を使ったのかもしれないな。

「さらしな」や「更級」の看板や子孫は、どこへ行ったんだろう?
ひょっとすると、布屋太兵衛より古いさらしな蕎麦のルーツがあるかもしれないのに。

1800年代半ばには、逆に布屋太兵衛の「更科」をパクッて使った蕎麦屋が
何軒も出現するようになっていたらしい。

「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」は、保科家とのつながりから、
将軍家や大名屋敷、大寺院などにも出入りしていたと言われていて、
創業当初から御前蕎麦を名目とした高級店として超有名だったそうだ。

明治8年に、日本人全員が名字をつけることになった時、堀井とつけることにして
“布屋”は「堀井家」となった。
麻布に大名がいなくなっても高級化は進み、
蕎麦だけでなく器や調度品、店内の造作などでも群を抜いて、
敷地の面積も拡大し、宮内庁や華族なども御用達だったと言われている。
この頃が、元祖「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の最盛期だったのかもしれない。

隆盛を極めた永坂更科の布屋は、1941年(昭和16年)に廃業
昭和恐慌による資金繰りの困難化や食糧統制、
そして、七代目松之助の放蕩などが原因だったという。

ところが、戦後で混乱する昭和23年頃に、突然「永坂更科本店」という蕎麦屋が出現!
堀井家とは全然関係のない、元料理屋をやっていた馬場繁太郎という人物が起業したのだ。
七代目松之助が、この人物に店名まで売ってしまったらしい。
これが、いまの『麻布永坂 更科本店』
支店が全国にあるし、けっこう人気だよね。
僕はついこの前まで、これが江戸時代からある永坂更科の本家本元だと思っていたからねー。

ハナシがややこしいのは、この次。
まったく堀井一門と関係ない人に、店の名前を持ってかれたせいで、
本物を復活させないか、という気運がモリモリ。
麻布十番商店街の小林勇という人が旗を振って、堀井家の保氏とその妻きん、
布屋時代の職人などを呼び寄せて
会社として、昭和24年にスピード再開したのだった。
実質的に、伝統のノウハウも味も復活したんだろうね、きっと。
これが、いまの『永坂更科 布屋太兵衛』

でも、この店は、うまいこと小林さんを代表とした会社組織の下に配されて、
堀井一族を役員に迎えたりしていたけど、あくまで小林さんの商才で成り立つ会社だし、
他人がどんどん儲けておもしろくないし、ということで、昭和59年、
八代目の堀井良造氏は独立して直系の店を作る
ことを決意。
これが、いまの『総本家更科堀井』ってわけ。

先にできた2店が主な名称を商標登録してしまっているので、商標権争いに勝てなくて、
この店は、布屋太兵衛直系の店だというのに、“麻布”も“永坂”も“布屋”も“太兵衛”も
店名に使えない、なんてことになっちゃった。
それで、「総本家」なんて嘘くさい冠と、本家本元の全然知られていない名字「堀井」を
くっつけるという、いちばん本物っぽくない店名になっちゃったというわけ。
でも、この『総本家更科堀井』こそが、ホントの“麻布永坂の更科”なのだ。

でも、2番目の『永坂更科 布屋太兵衛』は、
戦後すぐに始めたし、開店当初は本物の布屋の人間と職人を擁してできた店なので、
いまは堀井家の血は流れていなくても、元祖・布屋の蕎麦屋としての体液は流れているかも。
つまり、味やサービスはより元祖に近いのかも、ということ。
まあ、伝統をきちんと守っていたら、のハナシだけど。

・・・というわけで、
まず最初は元祖直系の『総本家更科堀井』に行かなくちゃ、
と決めてみたのだ。

入口は想像と違って、モダンな感じだったねぇ。
「神田まつや」や「虎の門 大坂屋 砂場」のような古風というか伝統的というか、
そういうのを勝手に想像していたっけ。

総本家更科堀井入口

入口にメニュー商品のショウケースがあるのが印象的だね。
名代とか名店と呼ばれる店では、なかなか見ることができないよね。
観光客や蕎麦好きや近所の人なんかが来ると思うけど、
誰が来てもどんなものをいくらで食べられるのかが、
びくびくしながら入る前にわかって、親切な感じがするなー。

店内も、こあがりの部分は純和風な感じだけど、
全体的には“和モダン”という趣き。
さらには、メニューの写真やパンフレットのデザインクォリティの高さなんかを見るに、
これは明らかに腕利きのプロデューサーというかディレクターというかが、
しっかりイメージ戦略を立てて仕事をしているのが伺えるな。

メニューも、やはりそんなに気軽な値段ではないねぇ。
一品料理の「板わさ」や「玉子焼き」、基本の「もり」、「さらしな」、「太打ち」、
「かわりそば」あたりはわりと標準的な値段だけど、
天ぷらの付くものや各種種ものとなると突然1500円越えとなるねー。

そうそう、昼酒を飲るために来たんだっけ、というわけで、
純米吟醸の「名倉山」一合680円の燗「玉子焼き」680円を注文。

普通なら僕は、どんなとこで呑んでも吟醸酒はたのまないんだけど、
残念ながらココには定番も季節のおすすめも吟醸酒しかないので、
しかたなく大吟醸だけは避けて純米吟醸にしたのだ。
個人的には、吟醸酒は香りが華やか過ぎて、
食中酒には向かないもんと心に決めているのだ。
ま、人それぞれだけどね。

総本家更科堀井_玉子焼き

玉子焼き!!
うわーっ、これはうまいなあ。
いままで食べた玉子焼きや出し巻玉子のどれにも似ていない。
まろやかな煮返しと出っ張り過ぎない出汁を入れて弱火で熱を通して、
しっとり湿ったクレープをきれいに巻いた、という感じ。
蕎麦汁のきいた出し巻玉子はあまたあると思うけど、
このしっとり感と絶妙な味は、いまんとこオンリーワンだな、僕の中では。

総本家更科堀井_玉子焼きアップ

もちろん、燗酒に合わないはずがないやね。
出汁と返しの発酵旨味と、酒の発酵旨味は友達だからね。

半分くらい呑んだあたりで、蕎麦を注文。
かき揚げともり、とか、さらしなや変わり蕎麦をたのむのがフツーだろうけど、
挽きぐるみの「太打ちそば」というのがあって、
へぇー、更科蕎麦屋にもこんなのがあるんだ、と思わずそれにしてしまった。

総本家更科堀井_太打ちそば
「太打ちそば」870円

総本家更科堀井_太打ちそばアップ

おーっ、太てーっ。
こりゃ、思ったより太い。
そして、長い。
これは、うどんだ。
いや、 “太いうどん” だあ。

食べていくうちに、せいろに盛られた蕎麦全体が、
たった数本の麺で構成されていることに気がついた。
こんなに太い麺を、どうやってつないで、どうやってたたんで、
どうやって切っているのか想像もつかない。
もちろん、コシがビンビンで、味も濃厚、うまいに決まってる。
ズッズッとすするのも平気で、シコシコ噛んで味わうのも好きな向きには絶好の蕎麦だなあ。
僕的には“更科”のイメージと真逆。
これ以上太くて味の濃い蕎麦があるなら、教えてほしいくらいだ。
しかし、これはもはや蕎麦じゃない、“太いうどん”だあ。

でもね、ココに来てはっきり気づいたことがひとつ、
そこいらの蕎麦屋とは、明らかに蕎麦汁の味が違うね。
要は、出汁の濃さ。
本枯節の厚削りをじっくり煮て出しを取りきる、
とはこういうことなのか、って感じ。
強烈な出しのパンチがきいている。
でも、魚臭いということはないのがミソなんだなあ。
この辺が、老舗と若い店の明確な違いかもしれないな。

あー、やっぱり更科なんだから、
“さらしな” か “かわりそば”にすればよかったかなー、
なんて思いながらミニパンフレットを覗くと、あら、楽しい!
今度は、“もり”と“季節の変わりそば”にしよっと。


【季節の変わりそば】(真白な更科そばに旬の物を練り込んだ変わりそば。)

1月4日~8日    /   桜海老切
1月9日~31日    /   柚子切
2月1日~28日    /   春菊切
3月1日~3日    /   三色そば
3月4日~15日    /   ふきのとう切
3月16日~4月10日 /   桜切
4月11日~30日   /   木の芽切
5月1日~10日    /   茶そば
5月11日~23日   /   よもぎ切
5月24日~6月5日  /   紅花切
6月6日~20日    /   蓼切
6月21日~30日   /   トマトつなぎ
7月1日~7日    /   笹切
7月8日~31日    /   青海苔切
8月1日~31日    /   しそ切
9月1日~21日    /   青柚子切
9月22日~10月9日  /   菊切
10月10日~31日   /   くこ切
11月1日~21日   /   くちなし切
11月22日~30日   /   柿の葉切
12月1日~30日   /   柚子切

※12月21日・22日のみ、かぼちゃ切


ちなみに、本家本元の「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」は、
いくつかの支店を残しているんだよ(いまでもやってるとこ)。

●明治20年に血縁分店第1号として生まれた、「布屋丈太郎」→ 現『神田錦町更科』
●明治32年に初の支店として生まれた、「麻布永坂更科支店布屋善次郎」→ 現『さらしなの里』(築地)
●昭和38年に有楽町更科から分れた、「布屋恒次郎」→ 現『布恒更科』(南大井、築地支店もあり)

・・・の3つ。
そのうち、ぜひ行ってみたいとこ。

しっかし、平成6年に閉店してしまったけど、『有楽町更科』に行ってみたかったなあ。
昭和初期に隆盛を極めてた店で、昭和3年に初めて旅客機が東京-大坂間に就航した際に、
一番機に蕎麦を200人前載せて大阪の祝賀会場まで出前した、というエピソードが残っているほどの店だし、
四代目の藤村和夫氏は、漫画「そばもん」の監修者だしね。
(藤村和夫氏は、2011年1月24日に逝去された)


●『総本家更科堀井 本店』
東京都港区元麻布3-11-4
03-3403-3401
11:30~20:30(L.O)
ランチ営業、日曜営業
年中無休(年末年始・夏季休暇を除く)